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というわけで、チャルキア朝の三都をアイホーレパッタダカルの順に訪れ、この日はバダミに投宿した。バンガロールを発ってから国道沿いにホスペット、ハンピを経由してカルナタカ州を北北西に上って来た身にとって、バダミは随分車も多くてにぎやかな街に感じられた。

翌朝が明けて一番、街中の岩山をくり抜いた石窟寺院に向かうと、ふもとの駐車場ではバスの屋根にくくられた乗客の荷物を狙ったサルと警備員の追っかけっこが繰り広げられていて、キーキーとサルの鳴き声が岩山にこだましていた。

駐車場から階段を上ると最初はシヴァに捧げられた第1窟、入り口はナタシヴァ(踊るシヴァ)の見事な彫刻。ちょっとエローラを思わせる雰囲気。彫刻のレベルは高いし、保存状態もよい。

山肌を段々に登りながら第2、そして最も大きい第3窟へ。こちらはヴィシュヌをテーマにした彫刻が多い。



切り立った岩山のふもとはアガスティアタンクと呼ばれる貯水池になっていて、ここは7世紀以来の聖地。池のほとりに寺院が見えていたので、一度岩山を降りてメインストリートから池の方に入ろうとするが、道路に何の表示もなくてどこから入っていいかわからない。

取りあえず見当つけて曲がったら、そこは割と狭い道の路上に市場の広がる雑踏で、果たしてこんなとこに入っていっていいのかどうか立ちすくんでると、後ろから来た小学生の女の子に「Come with me!」ときれいな英語で声掛けられる。
「私の学校はお寺と同じ方向」とのことで、この少女に着いて歩くことに。途中写真撮ってたら、「早く来なさい」と叱られた。確かにお陰で彼女が遅刻したら申し訳ない。

市場の通りからさらに狭い道へ右に折れ、正門から彼女が登校するのを「助かったよ、ありがと!バイバイ」と見送ってそのまま進むと池の北側に出た。ここに博物館と、比較的規模の小さいブータナータ寺院北院がある。

ガートでは女性たちが朝の洗濯をしているところだった。奥に見えているのがブータナータ寺院の東院。ドラヴィディアンスタイル(南方様式)のヒンドゥー寺院がまるで池に浮かんでいるようで美しい。

こんなに歴史のある由緒正しい寺院が、表示もない市場の雑踏の奥、他に観光客も見当たらない場所に凛々しく建っているというのが印度のすごいところかも知れん、と妙に感心。

寺院は東岸から池に向かって、ということはつまり西に向かって建っている。ヒンドゥーで寺院を夕陽に向かって建てるのは言わばご法度だが、岩山に囲まれた一番奥のポイントを最も重要な場所に選んだ結果こうなったのか。正面の階段が池の水面に向かっているので、時の権力者は船に乗ってこの寺院にアプローチしたと思われる。

寺院の裏手の大きな岩に、神々が一堂に会したなかなか興味深い彫刻があった。


この日バダミを出て一気にバンガロールに戻る途中、国道脇のドライヴインで午後の食事を取った。定番のアルゴビとダルと一緒に頼んだトマトカレー(手前)、熟れたトマトの酸味が利いた秀逸の一品だった。

タイに来てから、カニカマを食べなくなった。

カニカマという存在そのものに罪があるわけじゃない。日本では、代用品ですけどご勘弁、くらいの自らをわきまえた振舞いのできる食材だ。でも、タイでは違う。立場を忘れて大きな顔をしている。

まだタイに来て日の浅かった頃、セントラルデパートの上にあるFood Loftで寿司弁当の見本にぎっしり鉄火巻きが並んでいるのを見て注文したら、出てきた巻物の中身はすべてカニカマであった。

見本と実物の差に耐え切れず、「なんだ、これは~!?」とスタッフに詰め寄ると、向こうは「ん、何が悪い?」と一向に悪びれる様子もない。「おまえじゃ話にならん、マネージャー呼んで来い!」と暴れると、スーツ来たおばさんが出てきて「これはプーアッだ」という。

プーはカニの意味で、プーアッというと語義は押し寿司のようにカニ押したらこうなったって感じだが、まさか本気でそう信じているわけではあるまい。「で、プーアッは何でできてる?」と訊くと「カニじゃないんですか?」と怪訝な顔で返してくる。つまり、鉄火巻きの見本とは確かに違うが、替わりにカニ出してんだから文句ないだろ、という態度。

タイ人のカニカマ信仰はゆがんでいる。寿司だけでなく、立派な刺身舟盛の真ん中にいたり、サラダやスパゲティでも主役の具であったりする。カニカマピザに至ってはPizza Hutのキャンペーン商品としてデカデカと店頭ポスターを飾っていた。ともかく、そんな偉そうな態度が嫌いで、いつもカニカマをよけて食べるようになった。


という、この僕が、

先週タイ人スタッフと屋台でお昼を食べてたら、別のスタッフが向かいの屋台で買ったお菓子をデザート代わりに持ち込んできた。

何かを細く切って揚げてあるのだが、妙にうまい。にんじんか?いや、違う、何か果物か?それにしても、ビールの当てなんかに最高だよな、これ。

「なに、これ?」と尋ねると、スタッフが満面の笑みで「プーアットート(カニカマ揚)」の答え。「おいしいですか?まだありますよ、もっとどーぞ!」


やられた、またしても、やられたよ。
バンガロールを州都とする印度南東部のカルナタカ州にはユネスコの世界遺産がふたつあって、ひとつはハンピ(ヴィジャヤナガル王国)の都市遺跡、そしてもうひとつがチャルキア朝の宗教都市パッタダカルの建造物群。 パッタダカルという名前は、チャルキアの王の戴冠式がこの地で行われたことに由来するそうだ。

パッタダカルは遺跡公園以外に特にこれと言って何もない小さな集落で、この日アイホーレを出て畑の中を走ってきたら、突然目の前に遺跡が現れる感じだった。

例によって、窓口で印度の世界遺産入場券250ルピーを買う。
遺跡公園の入り口は北西のコーナーにあって、手前(北側)にはどちらかと言うとシンプルな造りのナガラスタイル(北方様式)の寺院が、後から建造されたスケールのでかいドラヴィディアンスタイル(南方様式)のものが奥(南側)に、ほぼ年代順になっていてわかりやすい。ただ建物はすべて東、マラプラバ川を向いているので、入り口から見ると背を向けて並んでいることになる。すべての寺院は共通してシヴァを祀っている。

ま、それにしても、日本で言う飛鳥・奈良時代の建造物が、戦乱の世を生き抜いて今もこうして立派に残っているというのは有難い話だと感銘する。

まずは砲弾型シカラ(本堂屋根)を持つナガラスタイルのカダシデシュワラ寺院。

同じくガラーガナータ寺院と、後ろに見えるのはジャンブリンガ寺院。少し造りが複雑に発展してきたかな、と。



そして、いよいよ奥のドラヴィディアンスタイルの世界へ。シヴァ信仰のリンガもいくつか見える。

ふたつの相似形の建物は、現在は左がヴィルパークシャ寺院、右がマリカールジュナ寺院と呼ばれているが、もともとはチャルキア朝の王ヴィクラマディーティア2世がカンチープラムのパラヴァ朝との3度の戦いに勝利して凱旋した栄誉を称え、正室ローカマハデヴィが建造させたローカシュワラ寺院と、側室で双子の妹トリローカマハデヴィが建造させた一回り小さいトリローカシュワラ寺院であった(と公園にいたガイドのおじいさんの説明だった)。

寺院脇の彫刻で、右半身がシヴァで左半身がパールヴァティのアルダナリシュワラ。同じく右半身がシヴァで左半身がヴィシュヌのハリハラ神。そう言えば、両方ともマハバリプラムのパンチャ・ラタにいたな、当時交流が深かったカンボジアのチェンラでも見かける。





ヴィルパークシュワラ寺院は、正面のマンダパにいるナンディも立派だった。個人的にはこのナンディの足の組み方がとても美しいと感じた。


当初ナガラスタイルの寺院を建造していたチャルキア朝の王が、宿敵パラヴァ朝の寺院建築の美しさに惚れ、建築家を招いてドラヴィディアンスタイルを真似たのがこのヴィルパークシャ寺院であり、この様式が後のラーシュトラクータ朝に受け継がれてエローラ第16屈のカイラーサナータ寺院が彫り出されたという、南印度寺院建築史のダイナミズムを感じずにいられない。

ハンピの隣町ホスペットから国道13号線をさらに北北西に向かった先は、6世紀から8世紀のチャルキア朝(前期チャールキア朝)の都。

宗教の中心パッタダカルを真ん中に、西南西に政治の中心バダミ、北東に産業・教育の中心アイホーレと、チャルキア朝の三都がそれぞれ20kmずつほどの間隔で並んでいる。最盛期には亜大陸中南部に広く版図を広げたチャルキア朝について、7世紀に中国から訪れた玄奘三蔵もその様子を「大唐西域記」に記した。

13号線を西に折れ、最初に到着したのはアイホーレ。町に入ったと思ったら、車が停まったのはいきなり遺跡公園の正面。世界遺産のパッタダカルに気を取られて、ろくに下調べもないままアイホーレに着いてしまって何だか申し訳ない気分。
ともかくも入場券100ルピーなりを払って芝生を敷き詰めたのどかな公園に入る。

あ、この建物有名やね、前方後円の馬蹄型が特徴のドゥルガー寺院。

祠堂の周囲を回廊が囲んでいて、窓から陽の差し込んでくる感じがいい。
この回廊はギャラリーを兼ねて設計されたようで、祠堂側に壁龕が切ってあり、ヒンドゥーの神々の彫刻が並んでいる。

シヴァとそのヴァーハナ(乗り物)ナンディの仲良く記念写真風

南印度で人気のモチーフ、ナタシヴァ(踊るシヴァ)

ヴィシュヌの化身(いわゆるアヴァターラ)のひとつ、ナラシンハ
*因みに「アヴァター」って言葉、ヴィシュヌの変身が語源やね。

同じくヴィシュヌの化身で、猪になって女神を救うヴァラーハ


広い公園には他にも多くの建物が並んでいて、たくさんの人が休日の散歩を楽しんでいた。


公園の一角に博物館があって、入場料は別に5ルピー。どこの遺跡に入るにも高い外国人料金と安いインディアン料金の二重設定になっているのに、博物館の料金には区別ないらしい。

博物館で面白いジオラマ発見!
城壁の内側に馬蹄型したドゥルガー寺院がよく見える。他にも公園内の建物がいくつか見えて、僕らが今この模型のどこにいるかがよくわかる。そう言えば、さっき丘の上に祠堂が見えてたし、もしかするとフェンスで囲まれた公園の周りにも、町のあちこちにこういう遺跡が残っているんだろうか?


実はそのとおり!


公園から町に出ると、ジオラマで見た古代都市の、その中に暮らしている人々がいるのだった。



びっくり!
そんなこんなで、ハンピの翌朝は大晦日。

ゲストハウスを出ると、路地のあちこちで家の前に指で模様を描く女性が目に着いた。家内安全を願う朝の日課のようだ。それぞれがユニークな柄でふたつとして同じパターンはない。

通りに出て、まずは朝のチャイを頂く。

ヴィルパークシャ寺院の門の脇をちょっと下ると、すぐにトゥンガバトラ川のガートに出る。ひんやりした空気に包まれた景色のよい川岸は、沐浴の善男善女でごった返していた。ちょうど修学旅行生もやってきて、水の冷たさにきゃあきゃあ言いながら、髪の毛を濡らしている。


さてと、今日はハンピのハイライト、ヴィタラ寺院と王宮を観に行く!

かつてのヴィジャヤナガルの数ある遺跡の中で、ヴィタラ寺院と王宮のロータス・マハルにだけチケットチェックがあって、印度の世界遺産入場券250Rpなりを買い求めないといけない。チケットの有効期限1日限りなので、このふたつは同じ日に回った方がよい。

ヴィルパークシャ寺院のある村の中心からヴィタラ寺院に行くには、ハンピバザールから川沿いののどかな遊歩道を1kmほど歩けばよいが、僕らはその後に広い王宮を回るためバス停から車で出発したので、道路を8kmほど回り道。しかも降ろされた駐車場は、結局ヴィタラ寺院の東に1kmほど離れていて、ここからの電動カート20Rpは別料金。でも実は東からアプローチするこっちが表参道で、正面に見えるゴープラがだんだん近づいてきた。


ゴープラくぐって中に入ると、拝殿に向かって象2頭が引く山車(ラタ)のかたちをしたガルーダ・マンダパ。


こちらは拝殿、すごくきれいな彫刻で特に柱のデザインが繊細。耳を近づけて細い柱をたたくと、石とは思えない甲高い音が響く。



朝一番に来てゆっくりヴィタラ寺院を見てたら、修学旅行の団体に追いつかれ、いつもの「フォトフォト(写真撮って)」攻撃を受け始める。で、その後王宮に着くころにはもうすっかり修学旅行生に囲まれた。


上の写真は、王宮のエレファント・ステイプル(象舎)、ヒンドゥーとイスラムが混ざったような優雅な造りで気に入った。象たちもさぞ大事にされていたろうと思う。

下の建物は王妃の浴場。 しかし・・・君ら楽しそうやね!


因みにハンピに修学旅行生を受け入れるような宿の設備はもちろんないので、彼らは夜は寺院の境内で地面に雑魚寝らしい。みんな裸足やし。強いね。


遺跡にいたおっさんから写真のきれいなガイドブックを買ったので、これでだいたいヴィジャヤナガルのメインは一通り回り終えたなあと確認していたら、ガイドブックの中でガートに彫られた「千のリンガ」という不思議なオブジェが紹介されていて、どうしても気になるので、またヴィタラ寺院への川沿いの遊歩道に戻るが、見つからない。

人に尋ねると、「もうちょっと先」というような返事なので、もう近くにいるはずなのに、何の標識も見当たらず行ったり来たりしてしまう。

途方に暮れていると、子供がやってきて、道からでは見えないから舟に乗れと薦められ、仕方なくだまされ気分で一寸法師のお椀の舟に乗ってみる。これ、ひっくり返らないかちょっと心配。

どうやらこの小賢しい子供船頭は、ディズニーランドでキャスト研修を受けたと見え、川岸の寺院や奇岩を紹介しながら、途中でわざと水をはねたり、船をくるくる回してみたりして乗客を飽きさせない。説明するまでもなく、「あ、クロコダイルだー!」のフレーズでは、乗客全員お約束で「きゃー!」と反応するのが暗黙のルールとなっている。


途中クリシュナ堂という、河岸の岩のお堂に舟をつけ、ここから上がってみろと言われて岩伝いに歩くと、あっけなくあった!確かに。岩に彫った無数のリンガ、アンコールのクバルスピアンを思い出す。


満足して村に戻り、随分遅いお昼はイドゥリとチリのてんぷら。


その後、遺跡の丘から2011年最後の夕陽を見送った。



翌朝起きてみると、ゲストハウスの前の道は鮮やかな正月特別バージョンの模様で彩られていた。
明けましておめでとう!さあ、元旦はさらに北北西に向かうぞ!
年越しに印度の遺跡を訪れるのはこれで3年連続、今回はハンピというデカン高原の村に行った。

ハンピは、14世紀半ばから16世紀半ばまでヴィジャヤナガルという王都で、最盛期には50万の人口を抱えたという26sqkmもの広大な地に遺跡が広がる、なかなか興味深いところである。

ここの歴代王朝は周辺国と激しい抗争を続け、ヴィジャヤ・ナガル(勝利の都)の名にもその執念が込められている気がする。僕が初めて海外赴任したベトナムには11~13世紀ごろ現在のクイニョンあたりにヴィジャヤというチャンパの都があってアンコールと戦っていたし、次に移り住んだジャカルタも16世紀のジャヤカルタ(偉大な勝利)がなまったもの。そして今バンコクではアヌサワリー・チャイ(戦勝記念塔)エリアにいるが、アヌサワリーが記念碑で、チャイは勝利を意味する同じアーリアの言葉。つまり僕はどこでも勝利の「ジャヤ」にお世話になりっぱなしである。

そう言えば、新入社員のころ世田谷に住んでいたが、初めてのアパート探しが三軒茶屋であったことも、今思えば何かの因縁かもしれない・・・


と、何やら縁の深そうなヴィジャヤナガルの別名を持つハンピはカルナタカ州にあり、州都バンガロールから北北西に335km、国道飛ばして5時間半ほど。

北印度やネパールのドライヴで、タタのトラックが道で立ち往生している光景によく遭遇するが、南印度のトラックはほとんどがアショク・レイランド製で、どー見ても、

運転してたら、いきなり車軸が外れちまって!

という惨状をさらしているのを何度か見掛けた。実に悲惨だ!


しかし、対向車線から車軸の外れたトラックが突っ込んできたらひとたまりもない。
まさにIncredible !ndia、くわばら、くわばら、


バンガロールを発ったのが朝9時。巨岩がゴロゴロ転がる不思議な景色を抜けて、まだ陽が高いうちにハンピのバス停に着くと、現代のハンピ村は、トゥンガバトラ川沿いの現役ヒンドゥー寺院ヴィルパークシャ寺院の門前に民宿のようなゲストハウスが寄り添う、まことにひなびたところであった。つまりかつての大都市ヴィジャヤナガルのホンの一部が村になっている感じで、ここにはホテルと呼べるようなファシリティはない。

表参道に車の乗り入れはできないので、バス停で車を乗り捨て、いかにもうさん臭そうな客引きのおっさんに先導されてゲストハウスを4,5軒覗くと、年末で稼働率こそ高かったが、それにしてもホットシャワーのあるなしでせいぜい1泊300~700ルピーという千円しないぐらいのかわいい値段設定だった。

ここは地元の人が巡礼や沐浴にやってくる聖地で、レストランのメニューを見て初めて知ったが、村の中で肉を食う、酒を飲む、というような行為は許されないようだった。

ま、それもよし、とハンピの最初の夜は暮れていくのであった。

(つづく)
「今年から5年間有効です」と、「2554年まで」と書かれた運転免許証を手渡され、もうこれでタイにいる間は未来永劫運転免許の心配はないと思ってたら、あっさり半年前の誕生日で有効期限が切れていた。ことほど左様に月日の経つのは驚くほど早い。

話は脱線するが、2 554年はタイの仏暦。イスラム暦だったら1433年となるところで、しばらく前に仕事でタイとサウジアラビアを行き来していた頃は毎回千年以上の時差に深い感慨を覚えたものである。

というわけで、タイ国内のフライトや宿泊や入館の際の身分証明としても常に免許証を提示している自分にとって、これは由々しき問題なので、すっかり洪水騒ぎも収まったチャトチャの陸運事務所まで書換えに出掛けた。

陸運事務所にはたくさんの建物があってややこしいが、免許書換えは4号館の2階と教えられ、パスポートとコピー、ワークパーミットとコピー、それに期限切れから半年以上も過ぎた免許証を差し出すと、「期限切れからこんなに経った免許証出されても困るなあ!」とか、「すると何か、あんたこの半年間無免許運転続けてたのか?」とか言われることはタイのことなので全くなく、ちょうどハッピーバースデー前に書換えに来ている善良な市民と同格の扱いで受理され、番号札持って3階に上がれ、と言われる。

予想以上にスムーズな進行に拍子抜けしながら3階に上がると、廊下に30人ほどのタイ人が椅子に座って番号待ちしながら、適性検査の説明ビデオを見ていた。ビデオを見ていると、なにやら視力検査のようなことをしている。

あ、やばい!

以前は眼鏡を掛けていたので問題なかったが、その後レーシック手術を受けたとき、利き目の右だけ視力を上げて、左眼は読書、・コンピュータ用にわざと近視を残してある。片目ずつ視力検査されるとボロが出てしまうではないか。

番号呼ばれて部屋の中に入ると、まず色盲、続いて遠近、反射、視野とひとつひとつハードルをクリアしながら先に進むサバイバルゲームになっていて、思わず参加者全員の闘争心が掻き立てられるという仕掛けになっていた。

幸いなことに視力検査はなかった。ただ意外や意外、自分の遠近感がいい加減であったのと、視界の端では黄色と青の区別がついていないという欠点が暴露される結果になったが、試験官の「ホントにそれでいいの?」というやさしい確認に「あ、違いました、青でした」などとその場を取り繕って切り抜けた。周りにも脱落者はいなかった。さすが、微笑みの国。


みんな仲良く合格頂いて4階に上がると、そこはビデオルームだった。まず15分ほど、交差点カメラが捉えたえげつないクラッシュ事故映像を見せられ、続いて小一時間タイの家庭を舞台にした交通道徳ドラマが上映されるが、最後のこれはかなりの苦痛。

ここを辛抱すると、最後に2階で605バーツ払って、ようやく新しい免許証を受取る、めでたし、めでたし、という段取り。

次回は2560年の誕生日に!
先週、事実上の新婚旅行として来日していたブータンのジグメ・ケサル・ナムゲン・ワンチュク国王とベマ王妃が、宮中晩餐会、国会演説、福島県相馬市、京都市と行く先々で心温まる話題を振りまきながら、昨日帰国の途に着いたとのこと。カリスマ性と人間味あふれるすごい人や。

ブータンブームと言えば、国王がまだ王子時代の2006年、ブミポン国王在位60周年の祝賀に来て、タイの女性を大騒ぎさせたのが思い出されるけど、国王の兄弟姉妹は全員バンコクに遊びに来るのが大好きなのだそうだ。

僕が初めてブータンに行った2008年12月は、黄色組が空港を占拠して各キャリアがバンコクへのフライトを出せずにいたときだったけど、そんな中Druk Airがさっさとウータパオ空港から飛行機飛ばしたのも、遊びに来て帰れなくなった王女を脱出させるのが目的だった。

こんなこともあった、

今でこそ僕は好き好んで下町のアパートに移ったけど、バンコクに駐在を始めた当初は、下にイタリアンレストランの入ったランスワンのそこそこ高級なコンドミニアムにいた。

ある日、会社から戻ってくると、入り口に白バイの警官がふたりたむろしてる。ちょっと不思議に思いながらエレベーターに進むとそこにも警官が立ってる。部屋のある11階に昇ると、そこにもまたまた警官。

ええ、不在の間に部屋で殺人事件とかそういうの勘弁してよね、と思いながら自分の部屋の方に廊下を曲がると、びっくり!今度はスーツ姿の女性が立ってる。げ!ここ、僕の部屋なんですけど…。

あの、なんか、ありました?って恐る恐る尋ねると、ブータンの王子がガールフレンドと隣の部屋に滞在している、とにっこり。はあ、なるほど、お忍びでねえ。

それが今の国王だったか、あるいは兄弟の誰か、今となってはわからないけど、どーせなら部屋の前で少し待って、握手でもしてもらえばよかったかと悔やまれる。(笑
何ヶ月も掛けて北部から降りてきた大量の水。

タイの洪水は毎年の話だけど、今年は特にアユタヤあたりの工業団地を呑み込んで、日本でも随分話題に。その水が先週ドンムアン空港に達して、ついにバンコク入り。1日3kmのゆっくりしたスピードで道路を進んでくる。

今朝普通に出社するものの、バンコク北部にあるうちのオフィスの周りは水の増え方が早く、午前中で切上げて、仕掛かりのファイルや書類持ち出して部屋に戻ってきた。幸い4WDなんで走れるけど、セダンではかなりきつい状況。


って、うちのアパートに達するのもあと数日なので、洪水の中で生きる覚悟必要だけど。
ヨルダン車の旅の途中、カラクという町では丘の上に古の十字軍の城塞が、周囲を圧倒するようにそびえていた。


カラクから一気にヨルダン渓谷を駆け降り、海抜マイナス400mと世界一低い地表である死海のほとりのリゾートで、ぷかぷかフロート気分を味わい、肌にぴりぴりくる泥を体に塗りたくり、夜は対岸のエルサレムの灯を眺めながら1泊した。

ヨルダンに到着してからずっと岩山と砂漠ばかり見慣れてきたので、死海の周りのオリーブや野菜畑の広がる緑の風景には、違う国に入ったような感覚を受けた。因みに、死海は開発と共にどんどん小さくなっていて、このままでは由々しき問題とのことだった。


そんなこんなで、この旅行も最終日、翌日は首都アンマンの北隣にあるジェラシュという町の遺跡を見に行った。この町の遺跡は、アジアに残るローマ都市遺跡の中でも規模が大きく最も保存状態がよいのだそうだ。

遺跡のガイドの説明は、もともとここは1000ほどの柱が立ち並ぶローマ帝国の都市で、今でも322の柱が残っている。1世紀のローマ式のものもあるが、ほら、こっちの2世紀のコリント式のものはデザインが違うだろ、というような内容だった。アジアの遺跡には通じてるつもりだけど、残念ながらヨーロッパ遺跡の美術様式のことはようわからん。ただガイドの話のポイントは、時代を経ながら、この地で様々な文化が交じり合ったということだったと思う。まことにヨルダンらしい話だ。


ローマ遺跡につき物の公衆浴場や劇場も残っているが、ここの劇場は今でも毎年のフェスティバルに使用される現役だそうで、これがジェラシュの遺跡が世界遺産に登録できていない理由らしい。



遺跡を後にして、アンマンの町でヨルダン料理、と紹介されたが、メッゼとケバヴの数々は、僕の好物のレバノン料理と同じものに見えた。

特筆すべきは、料理と一緒に運ばれてきた甘酸っぱいミントティーがとてもおいしかったこと!アラビア語で「チャイナナ」と名前を教わったが、アラビア語で「ナナ」はミントの意味。ってことは、バンコクのアラビア街ナナは、アラビア人にとってミントの響きがあるってことなのか。
# by phraganet | 2011-09-19 02:13 | 中東見聞